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平成28年1月1日
■目次■

・< 鶴図〈大書院西南面〉>
・<玉林院覚え書き ―開祖月岑和尚のお言葉(一)―> 加地 安寛
・<編集後記>
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【 鶴図〈大書院西南面〉】

   
   

松竹梅に丹頂鶴を描き丹頂などにわずかに朱を施している。「狩野探雪図」と署名し「探雪印信」を左隅下に捺す。この障壁画を制作した寛文九年(1669)は15歳に当る。父探幽のように早熟の例もあり、探雪自身もこれより6年も早い内裏の襖絵の制作が伝えられるぐらいであるから異とすべきだはないかもしれないが、安定した構図は探幽の手になるものではないかとも考えられる。

     
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玉林院 覚え書き

   
  開祖月岑和尚のお言葉(一) ―「遺誡状(ゆいかいじょう)」を拝読する―  

檀家 加地 安寛

はじめに
 玉林院の開祖月岑宗印和尚(1560-1622)は有名な古渓宗陳和尚の法嗣(ほっす)で、高桐院の玉甫和尚や大光院の蘭叔和尚と同門である。
 慶長三年、大徳寺一四二世住持となり、同八年(1603)、典医曲直瀬(まなせ)正琳法印が開基となって玉林院を創建し、請じられてその開祖となった。
 不幸、同十四年堂舎炎上の難に遭い、鋭意再興に尽力して、 元和七年(1621)にほぼ竣工し、翌年示寂。 世寿六十三。
 「遺誡状」は主に門弟に与えられたもので、書簡文体、料紙は縦29センチ、横6.64メートルの巻紙で、 未装のまま木箱に入っており、蓋には「円光祖遺誡状」の題箋が貼付されている。「円光」というのは後水尾(ごみずのお)天皇から賜った「大興円光禅師」の号に因るものである。
 内容は二十九箇条、終始端正な筆致で、冒頭には「愚夫行脚(ぐふあんぎゃ)後諸遺誡条々」。 末尾には和尚遷化(せんげ)の 「元和八壬戌歳四月五日」の日付と御署名と二個の押印とがある。「行脚」とは、ここでは示寂の意味。
 ここでは月岑和尚のお言葉の雰囲気をできるだけ損なわないようにしながら、文章の大意を紹介することにした。
 註は各項に分けて付けた。


愚夫行脚(ぐふあんぎゃ)の後諸遺誡の条々
1 私に、あまり余裕のないことは、かねがね皆が知っている通りです。 当院の知行(ちぎょう)といっても僅かです。 檀徒もあまりなく、その上、先年は思いがけない火災にまで会いましたが、今では未完成ながら独力で再興した次第です。
 分不相応に修行僧を多く受け入れて、万事経営に余裕のないことは、みんなよく知っていることとて、食事その他もかなり質素にさせてきました……。
 死去の後は、頃を見計らって本山へ申し出て、 葬儀を頼んで下さい。 葬儀の仕方は例の通り。
 その前に、内々のお知らせで、葬儀の翌朝に、大徳寺一山の和尚方へのお斎(とき)をさしあげて下さい。
 お斎の献立も粗菜でいいのですが、そうすれば何かと徒弟の者たちへの批判もあるでしょうから、煎昆布、蓮根か。 時節によっては牛蒡(ごぼう)か。 六条豆腐、若和布、煎麩。 お壷には集め汁、海雲(もずく)、冷汁。 酒は三回すすめる。 ただし、酒だけは、葬儀にもお斎にも、上等の諸白にして下さい。 菓子は五種で、茶礼は例の通りです……。


愚夫=自分
知行=収入(石高)
諸白=上等の清酒


2 葬儀の時の挨拶は、言うまでもなく龍岳がして下さい。 翌朝のお斎の時には吉首座がするように……。

龍岳=開祖門弟の一人。 玉林院三世の龍岳宗劉和尚。開祖より三歳年長で、 門弟であるとともに協力者。
吉首座=開祖の愛弟子。 玉林院贈二世の祥外宗吉和尚。「吉」はその一字での呼び名。「首座」は院内での役の名で敬称。「蔵主」・「書記」も同じ。


3 お斎を終れば、和尚方に適当な形見の品に香資を添えて龍岳と吉首座と同伴で持参しなさい。私の病気がよくなっていたら、適当な墨蹟を書いておくのでしたが、 それも難しく、何か丁度よい品を見つくろってさしあげてほしい。 そうでなくてさえ、 立派な道具を持っていない私の様子、おまけに火災以来の道具の無さ、皆さん知ってられるから、何でも相応の品でよいだろうと思います。
4 一周忌から続く年忌法要は、もし出来るとしたら、和尚方に侍者一人か二人。 その方次第でお喚びして下さい。
5 本山の祖堂へ私の位牌を納める時期は、玉室和尚に尋ねるのがよろしい。言うまでもなく、龍岳が挨拶をしなさい。


玉室和尚=玉室宗珀和尚。本山一四七世。芳春院の開祖。

6 私については、他の塔頭のように、毎年年忌法要を営むことは凡そ不必要です。
 当玉林院にかなりの檀家が現われるか、弟子が幸運に恵まれて、寺の相続の見通しが立った時は、本山へ案内して年忌を執行してくれたらよいのです。
 そうでもない間は、年忌は延期して下さい。 私が貧乏なのは皆が知っているから、弟子たちの恥では全くありません。
 しかし、もし年忌を執行するのなら、私の命日がいつであったとしても、二月の末か、三月四月の初めの時候のよい時にするのが、よいかと思います。いつも冗談で言うように、若和布の盛ったのを肴にして、銀の盞にしてほしい。 ただ酒は京酒の中でも、ごく上等のものを念を入れて選んでほしい。 あはは……。
7 龍岳は、いうまでもないことながら、玉林院の内外、輪番所のことにも責任を持って下さい。 その上、私の弟子たちのことも万事監督指導してくれることを、くれぐれも頼んでおきます。


輪番所=一定期間、交代で寺務を勤める院外の塔頭、子院。

8 吉首座は、この玉林院での修行を専一にして、寺の相続に尽力して下さい。そして将来は本山の住持にもなれるように、いつも気を引き緊めて過ごすことが肝要です。
9 栄首座は、常楽庵の責任者になってもらいます。私の在世中に、立派に手入れをして、栄首座を隠居させるつもりでしたが、適当な檀徒もなかったのでこの様子です。
 常楽庵は小庵ですが、相応の掃除をして下さい。 ここに祀ってある広照禅師の御影前での読経、御香、供茶など怠りなく守ることが大事です。


常楽庵=洛北市原にあった古渓和尚の住坊。当時は玉林院の東に移建されていた。
広照禅師=開祖の師匠、古渓和尚のこと。大慈広照禅師。


10 椿蔵主は、南明庵の責任者になってもらいます……。

南明庵=当時、玉林院内にあった寮舎。 現在の南明庵はその名を継いで、 後に鴻池家が建てた。

11 洞蔵主には、宗巴が工面して丁度よい寮舎を建てて住まわすはずです。 しかし、 万一うまく行かなかったら新しく小檀徒が時期をみて吉首座や皆々と相談して、寮を建てて洞蔵主がその責任者になるよう努力してほしい。

宗巴=開祖の生家大森家の当主

12 春 蔵主は、適当な小寮でも任せたいのですが、 当分それが出来るまで、吉首座を始め皆々がいろいろと教訓しあい、 一生懸命油断なく修行を怠らなければ、檀家も出来、その考えで小寮の主になるようにして下さい。
13 松首座は当院に居て、吉首座の他、徒弟の者たちが相応に働かせ、精進するようによく言って指導して下さい。
14 巡書記は、以前の玉樹軒の時代から、ずっと長年、私の下に居てくれました。
 殊に私が玉林院に入る時など、いろいろかなりな働らきをしてくれましたが、とうとうそれにふさわしい報いは何もせず、巡書記の心中を考えると、私は恥ずかしい思いで一杯です。
 巡書記はもう老齢ですから、若い者と同じように修行僧としての勤めは出来ないと思います。輪番での出勤も巡書記には免除して、心安らかに玉林院の中に居て、私が育て上げた若い者、吉首座をはじめ皆の者達を監督して、注意すべき所があったら指摘し、先輩として教訓するのが第一のつとめです。
 弟子達は、何とかしてその手助けになるようにし、巡書記が日々年月を心安らかに送るように、皆で相談し世話をして下さい。


玉樹軒=玉林院に先立つ寮か。

15 珠首座は、私が死去した後は生国へ帰って、気楽に住もうと思っているようですが、吉首座はじめ皆々徒弟の者たち相談して、精一杯その考えを止めさせ、当院で辛棒(しんぼう)するように申しつけるのが大切です。
 何なら当院の近く、又は大仙派の中で、どこなりと小寮の主になるように工夫するのが大事ですが、それがうまくいかなかったら、当院の衆寮の東に廂(ひさし)のようにでも屋根を出すか、又は東へ棟をつぎ出してでも、当院の衆寮の東の寮の一間通りを南北に建て増して、 珠首座の寮の内に取り入れ、次の間に使って、生国からの来客や気の合う友人たちが来て、多少の客があったとしても気楽に会って話が出来るよう皆々に言っておくことが大事です。
 珠首座は、どうか私の在世中と同じように、玉林院のために心を尽くし、吉首座はじめ徒弟若輩の者たちに協力させ、万事当院のために珠首座が尽力してくれるなら、私の死後までの喜びです。


大仙派=山内で大仙院からわかれた法流の寺々
衆寮=修行僧の居室のある建物。大庫裏の北側にあった。


16 誰に対しても、 私の弟子の僧衆へは、他院の長老の弟子へとは違って、十分な手当をすることもなく、先年の火災以後は再興の工事などに辛労(しんろう)が多く、心を奪われて、このようなことになってしまいました。
 併せて、皆々も知っているように、当院には知行が少ししかなく、これという檀徒もなく、過分にお弟子を多くし、出来ないまでも当院が何とか恰好のつくようにというのが、いつもの私の願いでした。
 皆々も渕の底に沈んだような絶望を感じたと思う火災の時は、諸道具、衣服、袈裟、衣一つなかった所から、現在このように、未完成ながらも、何とか再興し、少しの諸道具など、似合いに新調しましたので、昼夜辛労は大変なものでした。
 そんなことがあって、弟子の僧たちにも、何程の心付けもしなかったことは、皆々が心中でどう思っているかを察すると、私は汗顔の思いで恥ずかしいことです。
 たとえ、少しの扶助もなくても、せめて情のこもった言葉でもかけたとしたら、皆々満足するところを、大体短気で、余裕がないのでいよいよ短気の上にさらに短気を重ねるようなことになり、皆々が心中どんなに思っていたかは察しています。
 しかし、そうではあっても、私の死後も辛棒して玉林院で修行を続けようとする人は、本当に深い思慮の人と思います。とはいうものの、私の死去を幸いにして、出て行ってしまおうと思う考えの人は、その人の考え次第です。しかし、私がどうあったとしても、どれ位、思うようにならなくても当院で辛棒して、ここで一生を終ろうと思う考えの人が居たら、その人を他の徒弟の人は出来るだけ誘引して、辛棒するように励ますべきです。
 一方、たとえどれ位かいがいしく働いて役に立つ人であっても、心得違いをして寺の規律を破る乱暴な考えの人はどれほど辛棒するように仕向けても、いよいよ心が荒れてくるから、そういう人は一刻も早く退出させる方がよい。 一人の心得違いがいると、よい方を見習わず、悪い方のやり方に染まり、かえって他の人の妨げになってしまうものです……。

(つづく)

     
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編集後記

   
 

▼開祖「遺誡状」……を読んで。
月岑和尚様の焼失後再興まで忰心のご様子。寺の行く末を案じ、弟子、下僕への細やかな心配りするお姿とが創建四百年を経ての本堂解体大修理成就と重なり感嘆の思い一入。未来永劫、法灯を守るべき精進を怠ることなかれと心いたしました。(雅)
▼昨年新年号の『玉林院年中行事を読む』に始まった加地先生の『玉林院の歴史』シリーズ。三作目の今回は、開祖月岑和尚の遺誡(遺言)状です。「消失した玉林院を再建したものの、知行も檀家も少なく、大勢の弟子を抱えている。経営状況は厳しいが、皆で力を合わせ、この寺を存続させてほしい」建物は再建したとはいえ、調度もなく、最低限の体裁を整えただけで、再興は未だ途中。病の床から、寺の行く末を心配し、存続を祈念する和尚の声が聞こえてくるような気がします。(幸)

 
     
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