前 書
玉林院十三世の拙叟(せっそう)宗益和尚(1776−1859)は幕末の大徳寺を代表する高僧であり、お茶の方でも有名な人であった。 この和尚が恐らく弘化5年(1848)頃に書き残された『玉林院年中行事』という美濃判二つ折り270ページに及ぶ大部な一冊があり、当時の玉林院だけでなく、広く禅院の具体的な日常の様子を知る上で貴重な資料である。 前年に、先住月舟和尚が遷化され、拙叟和尚もすでに73歳に達していた。このときにあたって和尚はこれまで師匠から受け継いで実践してきたものを自らの備忘のために、また将来の児孫のために、玉林院の師資相承を願って書いて置かれたものであろう。 内容は「毎日の行事」「毎月の行事」「毎年の行事」から成っている。「行事」というのは、狭義の行
事を含む修行・勤行・寺務など禅院での生活全般の意味である
なお、当時の玉林院は「塔主(たっす)(住職)」を中心に、数名かそれ以上の「僧衆」が居られ、それぞれの役務を分担して修行される僧院であり、「僕末(ぼくまつ)(労務者)」も従事していた。 建物も、東の門を入るとすぐに柿葺(こけらぶき)の「大庫裏(おおくり)」が聳えるように建ち、その中には「典座(てんぞ)・納所(なっしょ)」などの役務室、台所、客室、茶堂、それに「広敷(ひろしき)・大廊下」などの多目的ホールがあった。その西端のごく一部が、先年の平成大修理に、旧材によって復元されたのである。それに続いて現存の客殿(本堂)の檜皮葺の棟が東西に長く連なっていたのである。 原文は、専門用語が多く、詳細を極めているので、省略しつつ言葉も平俗な表現に変えた。すべては、二十世に当る現住幹盛和尚の御教示に依るものである。
玉林院の正月
「毎年の行事」の中から今回は、特に「正月の行事」に関する所を抜き出してみる。
十二月二十四日 朝、餅つき。見舞い(手伝い)木戸、輪住所、 番司、 旧出入りの者。 但し、三升取り(三升で二重ねの鏡餅)一飾り、 二升取り五飾り、一升五合取り十六飾り、一升 取り四十五飾り。 菱餅四枚・丸餅四枚・のし餅(平たくした餅) 二升取り三枚。小餅一升につき三十五枚取る。 ただし一斗の分。 餅つき心見の回礼善哉なり。小豆一升、黒砂糖 百文。
上によると、院内のお供え用の鏡餅が67組。他に菱餅・丸餅・のし餅・小餅350個。全体で一石(約1500キロ)の餅をつくのである。 庫裏の北の庭ででもあろうか。もち米を井籠に入れて蒸し、それを臼に入れてつく。一臼が凡そ二升であるから、五十臼ほどつく。数組の作業でも大変なことで、新春を迎える賑わしい行事であったと想像できる。 また「心見」として黒砂糖味の善哉を作り、近所や当日の手伝衆に振舞われたというのも面白い。
十二月二十五日 飾物 八百屋調達 十五飾 松の真、川柳、裏白、譲葉を讃州(鷹峰讃州寺)へ取りに遣はす。 諸飾買物 この日、現銀にて全て買入れのこと。 茸百、ころ柿百、栢三合、勝栗五合、昆布五本、薄茶半斤、扇子五十本、金梅花(墨か)二十挺、五種香一斤、線香十把、飯巾布(布巾か)二反、雑巾布二端、箒木笹十貫目、樒十五把 虫火(蝋燭)十五匁掛十挺、十匁掛二十挺、一森(不明)半斤、森下一斤 燈油二升、炭五俵、庭筵十枚餅つきに入用 竹菜箸五膳、竹蓋置二ヶ、灰吹五本 一、 下駄、草履、襪子、足袋、手拭 但し、僧衆の用
上の品をどう使われたかを思うと、院内の様子が想像できる。日常の用品を新しくし、清々しい新年を迎えようとするのである。
十二月二十六日 客殿その他、円鏡(鏡餅)献備(お供え)のこと。 一、院内の箸(柳箸)包紙拵へ置くこと。
十二月二十七日 大掃除、卵塔(祖塔)の花筒等も気をつけ申すべきこと 今大路家(開基曲直瀬家の子孫)から茶湯料持参。 小泉(片桐家)から霊供料来る。 大森家(開祖の御生家)からお供へ。 桑山家(桑山宗仙の子孫)から御供料。 米府(久留米藩主有馬家)から御寺納到来。 肥後妙解寺(末寺)から諸用銀到来。
十二月二十八日 諸間飾付 書院(客殿の北東にあった建物か) 床掛物 百鶴の絵 籠の花生け 柳 梅
掛物は多くの鶴が群れて飛んでいる芽出たいもの。彩色の美しい大幅であろうか。 籠の花入は掛花入であろう。結び柳で一陽来福の春を寿ぐのである。
蔭涼軒(書院の更に奥にあった建物か) 床掛物 大士の絵 花入 祝瓢 花 白玉(椿) 茶碗 立鶴 棗 吹雪 水指 芋頭 釜 繰口 茶杓 象牙 蓋置 青竹 香合 金獅子 炭取 瓢 香台 桑 香炉 染付
掛物は、現在も御所蔵の兆殿司筆の観音大士であろうか。前に香台に乗せた香炉があるとすれば、この花入も掛けてあるのか。 茶碗は御本立鶴か。繰口釜。 香合は楽焼かも知れない。炭取は大きな瓢を切ったもの。染付の香炉はどんな形だろうか。蔭涼軒の道具組は恐らく塔主和尚のお好みによるもので、茶の湯への御心入れの深さが察せられる。 この席へは、親しくしておられた黄梅院の大綱和尚らも通られたことであろう。やや私的な茶席であろう。
知事寮(大庫裏の内か) 床掛物 虚堂祖元旦上堂の語 花入 経筒に梅 白木台子棚 水指 唐金 茶碗 宗羽作楽赤黒 棗 茶杓 竹 釜 万代屋広口或いは 卍字釜 勝手炭取 香合 蛤 玉の絵赤黒茶碗 富士の絵茶碗 右は大福の用 但し、四畳半にて正月中これを用ふ。 同所飾付けは時に応じて宜しく致すべき事。
知事寮の道具組は一層あらたまったものである。 先ず掛物は中国南宋の高僧虚堂智愚禅師。大徳寺はこの法脈に属する。その元旦上堂説法の語。 花入の経筒。本来は経塚に埋納された銅製の円筒形。それに数輪の梅の花の凛とした雰囲気。しかも白木の台子に唐金の水指という厳粛な構え。茶碗の赤黒一双は南明庵を再興した鴻池宗羽(了瑛)の手造り。 釜は何れにしても改まった取り合わせ。水屋炭取りにまで心が配ってある。それにしても、作者名をもっと書いておいて欲しかった。 四畳半は霞床の席かも知れない。
十二月晦日 一、朝 除夜祝 楪子 焚茎 平皿 葛引 生姜 昆布 牛蒡 作法 焼豆布 楪子 細切 汁 白味噌 煮コロシ菜 飯 但し、茶の間に於て喫するなり。
「作法」は献立。 「楪子・平皿」は共に平たい食器。「茎」は野菜又は野菜の漬物。楪子が向う寄りに、平皿が真中に、飯と汁は手前左右に置くのであろう。
一、 除夜仏殿念誦 山中巡塔(山内各塔頭和 尚のお墓参り) 帰院後、院内諷経、諸堂香拝、了って卵塔香拝 相済み次第派中へ祝詞参向のこと。 一、 除夜茶礼のこと 哺時(午後四時)の後なり 引き続いて、元旦の祝 茶の間に於てこれ有り 白衣、裕(帯)を着す。 祝の作法 楪子 譲葉に茎 結昆布 雑煮 餅 大根 楪子 裏白に酢牛蒡 頭芋 (箸紙) 焼豆布
三方 昆布 蓬莱(豆・栗などの縁起物) 大服(茶)各服 梅干・山椒の粉 各皿に入れて小綺麗に盛る 右了って、追々歳旦の詩を出し、慈斧(塔主らの添削)を乞ふ。而して明朝、若水にて試毫(書き初め)し、以て呈す。 屠蘇 土器三献 新盃 三つ組 三重積(重箱) 一、巻昆布 二、牛蒡 三、生姜・煮豆・栢右、元旦の祝、屠蘇、重積など前日に拵へ置くこと。 今宵諸堂献燈し置く。分歳(節分)の夜も同様なり。客殿・位牌堂・南明・韋駄天堂・烏樞摩摩(手洗の守護神)・跋陀婆羅(浴室の守 護神)・常楽・洞雲 右、茶湯所々に献備のこと。
除夜の茶礼の後、引続いて、元旦の祝が行われている。 塔主以下衆僧は着衣を正して、大庫裏の茶堂に揃い、雑煮、大福、屠蘇、さらに重箱の料理で盃を廻し、除夜は漸く更けて行ったのであろう。
その間にあって、各自が歳旦の詩を賦し、塔主はじめ衆僧に添削を乞うという興味深いことをしておられる。常々、二と六は清書の日、三の日は詩の日と定められた禅院修行の奥深さをここに見るのである。その頃の書初めの一部でも残されていたら面白いことであろう。八月十五日の名月の祝と共に、玉林院の雅びを尊とぼう。哲学者唐木順三氏は述べている。「大徳寺の開山大燈国師の胸奥には飛花流水の風流があった」と。
一、 前日、室中へ中央出し、打敷を掛け拵え置く。 十六善神(大般若会の本尊)の尊像(画像)を掛ける。
一、 茶道具並びに和卓その他正月の品、七日後に片付け申すべきこと。 客殿中央は十七日に片付け申すべきこと。 仏壇荘厳(飾り)は二十七日片付け申すべきこと。
一、 諸記録相認むべきこと。諸納下帳(会計簿)委しく認ため置くべきこと。
元 旦 鶏鳴 洗面 院内一統 行事出頭 但し、祝聖(本山での行事)出頭までに斎座(食事)済ますべきこと。 一、 帰院後茶礼。 一、 院内添菜作法 平(平皿)海苔豆布 加菜 細切 汁 見合はせ 一、 早天 年礼名簿帖並に硯筥等を座敷に出し置くこと。 但し、杉原三枚二つ折、金赤水引にてこれを結びとじるなり。 一、 山中祝詞参向午時までに仕舞候こと。 一、 放参了(各自の時間になる)
正月二日 一、 院内添菜 平 焼豆布芋掛 加菜 見合はせ
正月三日 一、 平、焼豆布水菜 加菜、見合はせ 一、 鏡開きのこと。斎終って大鐘を撞き読経有り。 作法 楪子 茎 焼雑煮水菜上に置く 但し、円鏡台(鏡餅の台)は即日片付け、放参後、客殿庭廻り掃除のこと。 見舞(手伝)は両番司ばかり。
そして、この後もなお、いろいろな正月行事が続くのである。(つづく)
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